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三国志と三国志遺跡


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三国志の謎

『三国志』と『三国演義』は古代中国の歴史、文学、地理、軍事の百科書です。その発生から現在までの約1800年にそれに関する歴史遺跡が残っているほか、後代の人々が造った記念施設や、小説にフィクションされたものも現在三国志の文化財として存在しています。その中からたくさんの謎や疑問などが残されて、三国ファンの話題になっています。
三国志の観光地を巡りながら、その謎を研究したり、疑問点を検証したりすることは実に面白いことです。それに興味を持っている方は弊社とご連絡くだされば、弊社の三国志のベテランガイドはいろいろご協力します。

■劉備玄徳は成都に葬られていなかったのですか。

成都を訪問した日本人は少なくとも半分以上が市内にある恵陵(劉備の墓)を見学したことがあります。でも、劉備の墓は成都以外のところにあると聞いた人は少ないと思います。去年の重慶の新聞に「劉備の墓は奉節にある」との報道がありました。その報道によりますと、劉備の墓は長江三峡地帯の奉節県内の「?州賓館」というホテルの地下にあります。それを証明するのは劉氏の系図と明代の『?州府志』という地方歴史を記載した史料。安徽省物理探測チームも当ホテルの18メートル地下に空洞があると探測できました。以前、中国で有名な学者であった郭沫若も成都の恵陵は衣冠塚しかないと主張していました。理由は劉備が4月になくなったので、その時代の防腐措置では遺体を成都まで運ばれたことは不可能でした。
成都にある恵陵は劉備玄徳の本当の墓ではないのですか、この懸案は誰か解けてくれますか。

■貂蝉の謎

中国四大美人の中で、ほかの三人(西施、王昭君、楊貴妃)の行方が歴史上で明瞭でしたが、貂蝉だけ行方不明でした。貂蝉という人は『三国演義』にフィクションされた人物ですか、それとも歴史上に本当に生きていたのですか。
学者の考察によりますと、貂蝉の本名は任紅昌でした、並州郡九原県木耳村(現在の山西省忻州地区)の生まれ、宮廷の中で侍女として官員の冠の飾り物――貂蝉を管理していたので、貂蝉と呼ばれたのです。董卓と呂布を離間するため、彼女は義理のお父さん王允に美人計として使われたことがあります。呂布は董卓を殺した後、彼女は呂布の妾になった。白門楼事件で呂布が死んだ後、貂蝉の行方は分からなくなりました。
その行方について、三つの伝説があります:(1)貂蝉は関羽に隠されましたが、後曹操に見つかってしまいました。曹操は彼女を捕らえようとした時、貂蝉は自ら曹操の持っている剣に突っ込んで自殺しました。(2)関羽に助けられ、貂蝉は故郷にに帰り、お寺の尼さんになりました。(3)曹操は王允のまねをして、劉備玄徳と関羽を離間するため、貂蝉を関羽に贈与しました。関羽は劉備との義理兄弟関係を維持したため、貂蝉を殺しました。その三つの伝説も関羽と関係があったので、ある学者は赤兎馬のことを連想したところ、赤兎馬が貂蝉の喩えだと悟りました。つまり、赤兎馬は名馬として董卓、呂布、関羽に使われたことと同じように貂蝉も赤兎馬と同じ運命でした。
ところが、近年の報道によりますと、成都郊外に貂蝉の長女の墓が見つかり、その墓の碑文に貂蝉は蜀に入ってきたとの記載があります。貂蝉の行方はいったいどうなったのですか。

■諸葛孔明の隠居地は南陽か、襄陽か

諸葛孔明が劉備玄徳の『三顧の礼』で出山し、劉備玄徳を補佐始めたのです。それまでずっと野良仕事をしながら勉強していたのです。その隠居地は河南省南陽の臥龍崗か湖北省襄陽の隆中か、現在も論争されています。
論争の原因は西晋時代の歴史学者陳寿はそれをはっきり記述しなかったのです。『三国志・蜀書・諸葛亮伝』に諸葛孔明は叔父さんが亡くなった後野良仕事をしていたとの記述だけ残っています。後の説明がそれぞれ違います:宋代の学者裴松之の解説では、孔明の住んでいたところは南陽のケ県、つまり襄陽の町より20里(10キロ)離れた隆中というところでした。ところが、『諸葛亮伝』に収録された『出師表』に、孔明は「私はもともと布衣(庶民)で、南陽で野良仕事していました」と書いてあります。これは「襄陽説」と「南陽説」が並存している根本的な原因です。
中国に「百聞は一見にしかず」という諺があります。学者達は歴史、地理的な知識でこの懸案を説明していますが、それと違いまして、この2箇所を尋ねて自分の感覚でどこが隠居生活に相応しいか現地で判別してみましょう。

■赤壁古戦場の具体的な場所は?

赤壁古戦場いったいどこにありますか。一つの説によりますと、今の湖北省黄崗(黄州)西北にあります、その根拠はそこが宋代の蘇東坡氏の名作「赤壁懐古」に詠じられたところです。もう一つの説は赤壁が湖北省赤壁市西北部の長江南岸にあります。曹操の侵攻コースを考えたら、新野――襄陽――当陽――江陵――烏林――赤壁の順はそこと合っています。そして、曹操の逃げ道――華容道もその近くにあります。現地を巡ってみたら、貴方の判断はどうなりますか。それが分かりましたら、『三国演義』の小説の「赤壁の戦い」の部分にどういうような地理的な間違いが出たか、ご存知でしょう。

■「落鳳坡」はフィクションの地名ですか

いまの四川省羅江県白馬関に劉備のもう一人の軍師、「鳳雛」と呼ばれた?統氏の墓があります。古代有名な金牛古道が墓のところを通っています。墓より3キロぐらい離れたところに「落鳳坡」があり、?統の犠牲したところだそうです。また「落鳳坡」に?統の血墓(埋蔵地)があります。
?統は本当に「落鳳坡」で戦死されたのですか。それとも「落鳳坡」は小説のフィクションの地名ですか。

■ 永安宮は白帝城にありますか

『三国演義』によりますと、「夷陵の戦い」で劉備が敗戦した後、白帝城まで退き、白帝城の永安宮で諸葛孔明を呼んで行って、遺言を残した後病死されました。それは有名な「白帝城托孤」の物語です。
実は白帝城以外に、その近くの奉節県の町にも永安宮があります。劉備が病死された永安宮は白帝城にあるか、奉節県の町にあるか、宋代の蘇東坡氏も分からなくなりました。
永安宮の本当の場所はどこにありますか。それを究明することに現地の地名の変化を了解する必要があります。

■木牛流馬の謎

諸葛孔明は魏を北伐した時、桟道などの険しい道に使う糧秣輸送道具――木牛流馬を発明しました。木牛流馬の形はどんな形ですか、木牛と流馬はそれぞれのものですか、製造地は今の陝西省勉県ですか、四川省広元ですか。この道具はどれぐらいの食糧を運べますか。現在四川の農村で使われている一輪車(「鶏公車」)はそれに似ていますか。古来からそれを研究した人は少なくなかったですが、定論はありませんか。

 一部の三国志観光スポットの歩き方

成都武候祠
 三国志の旅の総本山と言われています。その近くに劉備玄徳の墓――恵陵があります、また劉備を初め、蜀の国の重要人物を祀っている「漢昭烈廟」もありますが、民間では諸葛孔明の声望がもっと高かったので、武候祠として世に知られています。最近、劉備義理の三兄弟祀る「三義廟」も市内の別のところから移されてきました。また、すぐ隣にある「錦里」という町に昔の成都風情が濃厚です。
入場料:60元 
場所:成都市本町の西南部にあります。
アクセス:1路、8路、10路、29路、53路、57路、94路、109路、302路などのバス停「武候祠」下車
万里橋
費緯(蜀の大臣)は蜀呉同盟のため使者として呉の国へ出発した時、諸葛孔明が錦江の南門大橋まで見送りに行きました。見送った時、孔明は「万里の旅は足元から始まる」とおっしゃったので、その橋は「万里橋」と呼ばれたのです。現状は昔の古橋はコンクリートに変わりましたが、船みたい建物が近所に作られています。その建物で食事をしながら、錦江沿いの景色を眺めるのは楽しいことでしょう。
場所:成都市錦江のほとり
アクセス:1路バス停「南大街」下車、35路、93路、109路、340路バス停「錦里東路」下車。
?統祠
劉備軍が蜀を侵攻した途中に流れ矢に当たって戦死した軍師――?統の記念地。祠の前には金牛古道が見られます。祠内に?統を祭る「鳳棲殿」、?統の衣冠塚と?統が死の直前に乗っていた白馬像などがあります。?統祠より3キロぐらい離れた古道沿いに「落鳳坡」の石碑が建てられています、「落鳳坡」にまた?統の血墓(埋蔵地)があります。
場所:四川省徳陽市羅江県白馬関
アクセス:成都――綿陽高速道路にて「万仏寺」又は「羅江」の出口から行きます。
双忠祠
諸葛孔明の子孫が戦死したところに「双忠祠」がつくられています。週長30メートルの巨大な墓の所に激しい戦いの場面が彫刻で再現されたほか、高さ4.6メートルの碑が立てられています。
場所:四川省綿竹市職業中学内
アクセス:徳陽――綿竹の道路を走ります。または綿陽―羅江―綿竹の方向からも行けます。
富楽山
『三国演義』においては、?城(現在の四川省綿陽市)の東山で展開された「?城の会」というエピソードが有名です。いまの富楽山公園は劉備が入蜀した時、?城で劉璋と宴会したところ。公園にその宴会を記念した「富楽堂」があるほか、門前に「桃園の誓い」の像、「五虎上将」の塑像があり、奥に劉備と?統の像があります。富楽山公園は三国志のテーマパークです。
場所:四川省綿陽市富楽山公園
アクセス:綿陽駅前の臨園路東方向へ
蒋?墓
蒋エンは孔明の丞相の職の後継者、246年病死の後、?城に埋蔵されたのです。墓は本物で何度も盗掘されたそうです。墓の東隣にまた蒋エンを記念した蒋恭候祠があります。
場所:四川省綿陽市西山公園
アクセス:綿陽貨物駅、鉄道学校の近く。
七曲山大廟関帝像
ここの関帝廟は世界で唯一顔が金色の関羽像。本来顔が赤いはずの関羽はなぜ?それは、七曲山大廟にある文昌帝に合わせたから。七曲山大廟の建物が坂に建てられ、ロケーションが素晴らしいです。ここは張飛柏で有名な翠雲廊の南側の入り口でもあります。
場所:四川省梓憧県七曲山
アクセス:梓憧の市街地から108国道北方向へ1キロ。
翠雲廊
金牛古道沿いに昔から道の識別のため、たくさんのヒノキが植えられました。その中に張飛と部下が植えたのもあります。南の梓憧県から北の剣閣、東の?中などのところまで数百キロ延びていたのです。劉禅が投降後、魏の国へ行った時、その林の中で休憩したことがあるので、「阿闘柏」が残っています。
場所:主に108国道梓憧―剣閣部分
アクセス: 108国道にて剣門関から南へ10キロ。(梓憧県方向からも行けます)。
剣門関
蜀の北を進出した天然要塞。蜀の姜維と魏の鐘会の攻防したところ。李白の漢詩『蜀道』には、「一夫当関、万夫莫開」(一夫関に当たれば万夫開くことできず)と書いたところはその辺でしょう。2006年の正月に剣門関の鎮関楼が火事で焼かれましたが、最近新築されました。剣門関の豆腐料理も名物。剣門関の近くに姜維の衣冠塚があります。
場所:四川省剣閣剣剣門関風景区
アクセス:成都――広元高速道路の剣門関出口から108国道を16キロ走ります。

古葭萌関 明月峡蜀の桟道 古陽平関 馬超墓 武候墓 勉県武候祠 木牛流馬製作地 劉備設壇処

古大散関  五丈原 ?中張飛廟 南充万巻楼 芦山姜維廟 雲陽張飛廟 白帝城   

三国志遺跡


四川省はかつて三国時代の豪傑・劉備玄徳、諸葛孔明、関羽雲長、趙雲子龍、張飛翼徳などが長年に渡って活躍したゆかりの地なので、数え切れないほどの三国遺跡を残っています。代表的なのは下記のようになっています。

翠雲廊:
昔成都から西安までの古道の一部で、柏の木が沢山植林してたから、翠雲廊と名付けられたのです。起点は東の梓どう、終点は西のろう中、全長約 300キロの蜀の古道には約 8000 本の柏の木が茂っていて、翡翠のような緑世界を成している。
史上記録によると、翠雲廊の柏の木が10万本も越えていたそうです、しかし、自然災害と道路工事と文化大革命の森林伐採で今 1/10 ぐらい残りました。この大規模の柏の森林は自然にできたじゃなく、歴代中央政府の努力でできたのです。柏の木辺りは成都から西安までの昔の国道なので、その道路を保護する為、歴代の王様が命令を出して、柏の木を植え続けさせています。記録ある大規模な植林は 6 回ぐらいあります。
1、秦の始皇帝時代:秦始皇帝が阿傍宮殿を造るために四川省を含む沢山の地方の森林を伐採した、宮殿できてから、民衆を慰める為、各地に植林する命令を下した。特に国道に柏の木を植えることも命じたそうです。今まで発見された柏の木の中で、一番古いのが 2000 年もあるので、始皇帝のその命令で植えた木だと判断されています。それで、翠雲廊は別名「皇柏」とも呼んでいます。
2、三国時代:三国時代、ろう中に駐在してた張飛はロウ中から成都までの道路を拡大、修繕した後、道路両脇に沢山の保護用の柏の木を植えさせました。ここからもう一つの別名がでてきた:「張飛柏」。
3、晋時代:地方政府の主催で大規模な柏の植林がされました。今 1 、 8m ぐらいの柏がその時代の木だそうです。
4、唐時代:唐の楊貴妃の時代、楊貴妃大好き広西省産のライチが殆ど翠雲廊を通って、西安まで運んでいたそうです。ライチ運ぶ道路を修繕する為、 4 回目の造林が行われました。
5、宋時代:宋仁宗時代、広元から成都までの古蜀道全体に植林が施されました。
6、明時代:1506年〜1521年、剣閣県の県長さんが道路修繕してから、大規模な柏の植林もしたそうです。

ほう統祠:
三国時代の智慧のシンボルと聞かれたら、誰でもすぐ諸葛孔明を口に出すが、しかし実は諸葛孔明と引けを取ってない才能を持つもう一人大変聡明な人が居る、その人はほう統です。
ほう統(179年〜214年)、字士元、湖南省出身で、三国時代劉備玄徳に仕替えた名軍師の一人です。若い頃は優れた才能を持ってる為、諸葛孔明、司馬えいと一緒に荊州三名士と呼ばれ、更に諸葛孔明の別名・臥龍に対して、「鳳雌」との別名を付けられた。
劉備玄徳は最初新野で曹操に敗戦後、荊州辺りに逃げてた時は、ホウ統に出会い、軍師として用い、更にほう統の策略で当時四川省を支配してた劉しょう軍閥を倒し、四川省を治めました。 ほう統は劉しょう軍との作戦中で敵の流れ矢に当たり、今徳陽市の白馬関の落鳳はで僅か 35 歳の若さで戦死した。戦死したところに埋蔵されたが、紀元 214 年、劉備玄徳の命令でそこから 2 キロ離れたところにホウ統祠を建てられ、もう一つ衣装とかを埋蔵する衣冠墓も造られた。
ほう統はその若さで死んでなかったら、きっと三国史上、諸葛孔明と一緒に耀いて、もっと沢山の智慧の物語残るどころか、中国の歴史ももしかしたら全然変わるかもしれないんです。
現存のほう統祠は清康熙皇帝30年(1691年)建て直されたもので、建物は正門、龍鳳殿、さい鳳殿、廊下とホウ統墓などで、殆ど石造りです。祠内に歴史上参拝の学者、詩人残った額と石碑が多く保存されている、周辺に柏の森林も茂っていて、特に入り口に生える2本の柏の木が張飛の植えた木だと伝えられ、1000年以上の歴史も持っています。

昭化古城:

年間平均気温16度、年間の降雨量1081ミリ、広元から36キロ離れています。
紀元前299年町になり、秦時代霞萌関に、明時代昭化に命名された。町全体の道路が青石で敷かれ、古い城門が3つ残り、昔の古城建築がそのまま残った町です。城内には費偉のお墓があります。毎年9月1日は則天武侯を記念するために「女の祭り」が行われ、更に、旧正月の23日には則天武侯の誕生を記念する盛大なお祝いも催されます。

ロウ中:
張飛廟がある。総面積1878平方キロ、総人口86万、県内海抜最高地888m 、最低地328m で、亜熱帯季節気候で、年間平均気温17度、年間降雨量1033ミリ、成都から300キロ離れています。城内面積1 、78平方キロ、町に残ってる張飛廟が紀元214年〜221年の間ここ駐在の三国時代の将軍・張飛を記念するところです。

武侯墓:
勉県定軍山麓にあり、紀元234年、諸葛孔明死後埋蔵されたところです。総面積は 24 万平方メートル、墓周辺に漢時代植えた金木犀 2 本、柏の木 22 本があります。

武侯祠:
勉県西3キロにあり、劉備の息子・劉禅の命令で紀元263年建立されたのです。

剣門関:
剣閣県にあり、三国時代蜀の国の戦争要塞で険しくて、攻められないから天険とも呼ばれています。
それ以外は綿陽の富楽山には費ィの墓があり、漢中に明月峡古桟道などが残っています。