三国志ツアー
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諸葛孔明の北伐

はじめに
諸葛孔明の北伐について色々議論があるが、歴史資料を分析したところ、個人的に諸葛孔明の戦略に賛成である。蜀国総人口90万以内、軍隊10万人、魏国総人口440万、軍隊60万、魏国の国土面積は全中国の2/3を占めている、数字から見ると魏国国力が当然遥かに蜀国を超えている。諸葛孔明にとって、現在の軍隊が無くなると、続いて多い人数の兵士を募れないのが残酷な現実だ。諸葛孔明は5回北伐をしたが、3回目までは北伐軍力はいずれも6万人を超えなかった。4回目はやっと6万人を超えたが、10万に達しなかった。このような状況で一回の敗戦でも蜀国が滅ぼされる可能性があるので、諸葛孔明はなるべく軍隊の死亡率を最低限にし、軍力を保ちながら、一歩一歩を着実に歩んで魏国の主力軍と魏国を滅ぼすチャンスを探していた。ここから考えると、魏延の子午谷出撃の計を採用しなかったのも当然のことだ。

第一回北伐:
時間:228年1月〜7月
軍力:蜀国5万〜6万 魏国7万〜8万
主要人物:
蜀国 司令官諸葛孔明 疑兵リーダ趙雲 街亭戦リーダ馬謖 補佐の王平 街亭戦後援軍の高詳
魏国 司令官曹真   中央軍リーダ張コウ 地方軍リーダ郭淮

228年1月、諸葛孔明は魏国を迷わすため、趙雲軍(1万人以内)に褒斜道への出陣を命じた。魏国の主力部隊曹真軍(3万〜4万)が諸葛孔明の計にはまり、趙雲軍を防備するために褒斜道方面に出師したら、2月諸葛孔明は主力軍(3万〜4万)を率いて魏国防備力弱い天水城方面を攻撃かけ、一気に礼県、甘谷県と天水市の西南部を攻め落とした。次は天水城を占領すれば、簡単に秦嶺山脈を越えて西安を攻めれるのだ。この時、魏国中央軍の5万騎兵は張コウの指揮で天水城を救援しにきた。張コウ軍隊の救援を止める唯一関所は天水から57キロ離れた街亭(今の秦安県街泉亭)である。馬謖は諸葛孔明の命令を受けて約2万兵を率いて先に街亭に着いた。諸葛孔明は主力を指揮して天水城の攻撃を急いだ。馬謖は兵書や作法が馴染みだが、実際の作戦経験が少なく、張コウ軍に敗北した。街亭を失ったら、蜀軍が魏軍の両面攻撃になるので、諸葛孔明は仕方なく、軍隊を撤退した。第一回の作戦が終わった。

第二回北伐:
時間:228年11月
軍力:蜀国4万〜5万 魏国1000人〜2000人 援軍3万人
主要人物:
蜀国 司令官諸葛孔明 魏延 楊儀 王平 ケ芝
魏国 陳倉(今の宝鶏市)司令官カク昭 補佐の王双

228年9月、諸葛孔明北伐軍を破った魏軍は呉国への作戦を始めた。曹休は陸路から、張コウと司馬ギは水路から攻撃をかけたが、曹休は呉国陸遜の計にはまり、大敗した。荊州を攻める張コウ軍と司馬ギ軍は水面作戦訓練に時間かかりすぎで、準備ができた時は川が既に凍ってしまい、作戦できなくなった。10月、諸葛孔明は魏と呉の戦争が始まった知らせを聞いて、西安の防備が弱くなったと判断し、11月に軍隊を率いて急いで漢中から秦嶺山脈を超え、大散関を経由して、陳倉を攻撃した。その前に、将軍の魏延は「子午谷を通って、長安へ直接攻める」という「子午谷の計」を提出した。冒険したくない孔明はその策略を採用しなかった。なぜならば、兵5000人に食料と物資の輸送に5000人の後方部隊を付けないといけないんである。万が一、失敗したら魏国奥に入ったこの孤軍が全滅される可能性がある。これが国力の弱い蜀国が受けられる損失である。ところが、陳倉の守備部隊が少ないが、城が堅固で、司令官カク昭の指揮も完璧で、20日間以上に経ってもまだ陳倉を攻め落とせなかった。食料がもうすぐ無くなったし、魏国の援軍ももうすぐ来るなら、やむ無く、諸葛孔明は蜀軍を撤退した。これが2回目の北伐戦争だ。

第三回北伐:
時間:229年春
軍力:蜀国4万〜5万 魏国1万〜2万
主要人物:
蜀国 司令官諸葛孔明 陳式
魏国 地方司令官郭淮

229年春、諸葛孔明は今後の北伐に有利な戦局をとるため、将軍の陳式に魏国の武都郡と陰平郡への出陣を命じた。自分が主力を率いて、天水と武都郡の境にある建威郡を攻撃して、天水からの援軍を止める。郭淮は武都と陰平を救おうとしたが、建威が攻め落とされると、自分が蜀軍に包囲にされるので、抵抗せずに軍を撤退した。それで、陳式軍はほぼ戦い無く、武都郡と陰平郡を占領した。北伐戦争を始めてから、諸葛孔明は初めての完全勝利を得られた。

第四回北伐:
時間:231年2月
軍力:蜀国6万〜7万 魏国8万〜10万
主要人物:
蜀国 司令官諸葛孔明 魏延 高翔 呉班 王平 李厳 蒋エン 費イ ケ芝 楊儀 馬忠 
魏国 司令官司馬ギ 張コウ 郭淮 杜襲 費曜 戴凌 賈嗣 魏平

第四回北伐の前に、230年に魏国が蜀国を攻める戦争があった。
230年8月、国力が自分より全然弱い蜀国の再三の攻撃に怒鳴った魏国将軍曹真の提案で、魏国は全国の兵を挙げて4つのルートから蜀国へ攻めに来た。司令官曹真は主力の中央軍団を指揮して子午谷から、荊州軍団の司馬ギは漢水を遡り水路から漢中を同時に攻める。もう3つ目軍隊が褒斜道から、4つ目の軍隊が西北から武都郡を目指して出陣した。諸葛孔明は魏国の来襲に対し、十分防備準備をした。まず、漢中城の防備施設を強めるため、東西に漢城と楽城の2つ砦を造った。そして、江州(今の重慶市)の李厳軍2万人を漢中まで呼んだ。魏延と呉壱はこの2万人を率いて武都郡を守るため、主動的に魏国の西北のチャン族地を攻めに行った。甘粛省の渭源市陽渓で魏軍の費曜と郭淮大軍を見事に破った。一方、騎兵軍が圧倒的に多い魏軍は桟道と峡谷の多い秦嶺山脈作戦中、劣勢になり、やっと漢中まで進んできたが、もう9月の雨季になった。西安、漢中などを含む中国西北部は連日の豪雨天気になり、漢中も諸葛孔明の厳守で何回攻撃しても全然進まなく、魏国の食料と物資輸送も問題となり、10月仕方無い曹真軍は撤退した。 この間、木牛流馬を発明して物資輸送問題を解決した諸葛孔明軍は軍力も多いに壮大して、総兵力は6万〜7万となった。敗戦した魏国を一挙に滅ぼすため、231年2月諸葛孔明は祁山(今の礼県辺り)を包囲して第四回の北伐を始めた。当時魏軍はこのような状況:祁山城の賈嗣と魏平の守備軍、天水城の郭淮、費曜と戴凌守備軍、司馬ギが指揮する荊州軍団と張コウが指揮する中央機動軍団の支援軍である。祁山城を攻める間、司馬ギの援軍が来た知らせを聞いた諸葛孔明は主力を率いて天水城を攻めに行った。天水守備軍を破ってから、司馬ギの援軍団を祁山城まで引寄せた。5月、蜀国軍と魏国軍は祁山で大決戦をした。王平軍は張コウ軍を破り、魏延が指揮する蜀軍主力が司馬ギの荊州軍団を見事に大敗した。関係資料によると、祁山の戦いで首を切られた魏軍兵士は12000人から18000人、蜀軍が戦場から取った鎧は5000セット以上、弓は3100だという。北伐以来、蜀軍が初めての大勝利を取った。この勢いで魏軍を破り、魏国を滅ぼすのがもうすぐのことだ。しかし、この絶好のチャンスが来た時に、漢中に駐在して食料及びほかの物資配達任務を担当した李厳は諸葛孔明に「食料が足らない可能性がある」と報告した。仕方が無く、諸葛孔明は軍団に撤退の命令を下した。また木門谷に伏兵を置いて、攻めてきた張コウを殺した。

第五回北伐:
時間:234年2月
軍力:蜀国7万〜8万 魏国10万〜15万
主要人物:
蜀国 司令官諸葛孔明 魏延 楊儀 馬岱 姜維 費イ
魏国 司令官司馬ギ  郭淮  第四回の北伐から約3年間経ったので、蜀国も魏国も戦争の準備をよくできた。魏国のお城防備も堅固で蜀軍はすぐにお城を攻め落とせない。奇襲戦ができず、五丈原で蜀軍は魏軍との持久戦をした。長年の戦争と政治に精力を傾けた諸葛孔明は今回の作戦は自分の最後のチャンスだと覚悟したようで、全ての事情を自分で処理することにした。8月疲労がたまった諸葛孔明が五丈原で病死した。蜀軍が撤退して5回目の北伐が終わった。


古今地名対照:
:今の甘粛省天水市
西県:今の甘粛省西南部
冀城:今の甘粛省甘谷県
祁山:今の甘粛県礼県
街亭:今の甘粛省秦安県街泉亭
陰平:今の甘粛省文県
武都:今の甘粛省隴南市
陽渓:今の甘粛省渭源市東北部
南鄭:今の陝西省漢中市南鄭区
陳倉:今の陝西省宝鶏市
長安:今の陝西省西安市
巴西:今の四川省中県
江州:今の四川省重慶市
益州:今の四川省成都市
城:今の四川省綿陽市
城:今の四川省広漢市
安漢:今の四川省南充市
漢寿:今の四川省広元市