2000年12月、都江堰が世界文化遺産に登録され、峨眉山、楽山、九塞溝、黄龍などに次いで四川省の5番目の世界遺産になりました。なぜこの当時軍事用に使う水利施設が世界遺産になったのか?
まず2300 年前の歴史を辿らないといけないんです。紀元前4世紀頃、中国が戦国時代になり、秦、楚、趙、韓などの7国があって、一番国力強いのが秦と楚の両国です。秦国は当時四川省を占め、四川省から揚子江を下り、まず楚国を滅ぼし、その後、ほかの5国を占め、中国統一する軍事方針を立てました。紀元前376年、中国統一する第一歩として、秦軍が四川省を攻め、当時四川省を支配している蜀国を滅ぼしました。その後、紀元前
280 年、秦の将軍・司馬さんが1万艘の軍船を率いて楚国を攻めに行きました。しかし、軍事用物資の配達と輸送問題で現在の三峡辺りのフ陵まで進んだら、もうそれ以上進軍できませんでした。というのが、秦軍当時軍事用物資の調達が主に成都でやりますが、成都周辺には大きな河がありませんから、物資を船に乗せるのが成都からかなり離れている岷江上流でやらないといけないんです。それで軍事物資の輸送が結構遅くて、戦争がうまくできなかったのです。この問題を解決するには岷江の流れを成都へ流せるしかないんです。
紀元前272年、秦王様の命令を受けた李氷さんが四川省に赴任しました。
李氷が3年間を掛けて、詳しく岷江を調査した後、岷江を分水して成都へ流せる治水案を提出しました。紀元前270年、秦中央政府から10万両銀(5000キロの銀)をもらった李氷が現在の都江堰で岷江の分水工事を着工しました。蛇籠(竹で編んだ籠に石を一杯包んだもの)などを利用して岷江を堰きとめ、4年間で分水堤防と岷江を2本の河に分ける魚嘴を造りました。この二つの部分で岷江が2本の河・内江と外江に分かれ、内江の水は成都を経由して揚子江に流れ、外江は昔のままの河道(成都経由しません)で揚子江に注いでいます。しかし、内江と成都の間には一つ大きな山・玉塁山が隔てています、内江の流れを成都へ流すには山を切らないといけないんです。2300年前の時、その山を一つ切るには少なくとも40年間かかります、もし、普通の作業で山を切るともう戦争には間に合わないので、李氷が妙案を出しました。岩をまず薪で焼け、岩が非常に熱いうちに冷たい水を掛け、岩が脆くなった時に作業の労働者が一緒に切ります。これで8年間かけて、李氷が玉塁山を削って、幅20M、深さ40Mの開水路を造りました。これが現在の宝瓶口です。その後、李氷が2年間で宝瓶口から成都まで、成都からまた岷江に戻る2本の運河を造りました。
紀元前256年、この軍事用に使う都江堰水利プロジェクトが正式に全面完成しました。岷江の内江の水が都江堰から成都へ流れる途中、成都平野の真ん中を通るので、地元の農民皆が自発的に小さい河を作り、内江から水を導入して自分の田圃を灌漑します。やがて、成都平野には何千本もの灌漑用人工河が出てきて、元々土肥沃の成都平野がそれから、都江堰のたっぷりの灌漑用水のおかげで、中国もっとも農業発達、裕福な国になりました。そこから、「天府の国」と呼ばれるようになったのです。紀元前223年、秦国100万の軍隊が成都から出発して、すぐ楚国を滅ぼして、2年後中国を統一しました。
実際の都江堰は軍事用だけではなく、できてからは洪水防止、農業灌漑用水提供などの重要な役割も果たしてきました。その建設技術と考えが今でも参考の値打ちがあります。
建設場所の側に山がある、流れの曲がりがあります。水流流体力学によるとこのような場所にダムを造ると水流などコントロールしやすいそうです。
都江堰の第一肝心な部分の魚嘴は分水の役割を果たしています。魚嘴の建設場所、大きさ、長さ、高さ、傾斜度と造る位置辺りの水流流速、流量などが全部精密に計算、設計されています。それで造った魚嘴がうまく岷江の内江と外江の分水をしています。増水期は上流から流れてきた岷江総水量の60%が外江に入り、40%が内江に流れます、渇水期が逆になり、60%の水量が内江に入り、40%の水量が外江に入ります。そうすると、うまく内江に入る水量をコントロールして、増水期は洪水にはならないし、渇水期は農業灌漑用水を保証できます。
都江堰第二の肝心部分・宝瓶口は成都へ水を導入する主要な役割のほかに2回目分水の効き目もあります。宝瓶口は幅が一定なので、その中に入る水が自然に制限されています。余った水が飛沙堰を通って、外江に流れ、うまく2回目の分水をしています。
附属設備として建設された飛沙堰は洪水期の分洪と沙を排出する役割を果たしています。
都江堰の一大素晴らしい貢献は現代ダム建設中でも大変難しい問題である沙貯まり問題をうまく解決しました。これがまず都江堰の建設場所の選択と大きな関係があります。1回目の分水設備・魚嘴はちょうど岷江曲がりにあり、そして、内江の河床が突き出ていて、外江の河床がへっこんでいます。水流流体学によると、この場合、魚嘴で分かれた川の表の水が内江に入り、底の水が外江に入ります、沙が殆ど底の水にあるから、それで大部分の沙が自然に魚嘴のところから外江に流れました。また、内江に入った砂が河の天然堤防である玉塁山とのぶつかりで、90%以上が飛沙堰を通って外江に排出されています。増水期流れ速い時は沙の排出率が98%にも達しているそうです。当然、内江に貯まる沙もあるので、毎年内江の沙を出す、河床を掘る修復工事も行います。三国時代の諸葛孔明もここを非常に重視して都江堰修復する役人も派遣していました。 |